相模原周辺の社会福祉に関する情報と地域情報を紹介

じぇね太郎 じぇね太郎の旅
-きらきらと輝いていたあの頃あの場所へ-

地域ヒストリー

原始時代の相模原

相模原には、3.5万年前ごろ(推定)に、人々が住みついたと言われています。

赤土の層から、旧石器時代の人々が使用した石器が出土していて、相模川沿いや境川などから発見されていて、田名向原遺跡では、約2万年前の旧石器時代の住居状遺構が発見され、国史跡に指定されました。

縄文時代の遺跡は中期(約4,500から5,500年前)のものが多く、境川、姥川、鳩川、八瀬川、相模川沿いなど市内百数十箇所の地点から発見されています。特に磯部の勝坂遺跡で出土した土器の一部は「勝坂式土器」と名づけられ、顔面をかたどった把手や豪華な文様で全国に知られています。

弥生時代の遺跡は市域にはあまり見られず、上矢部や上溝などから後期の土器片が発見されているだけになります。

古墳時代の相模原

古墳時代の終わり頃(恐らく650年頃)、古墳時代の前の弥生(やよい)時代に、大きな村が多くでき、争いがはじまりました。そして、その村をまとめるような国ができ、女王卑弥呼(ひみこ)で有名な邪馬台国(やまたいこく)が栄え、その少し後の時代に、当麻の谷原には10数基の古墳群(円墳)が築かれました。また、谷原の東南に連なる相模川の崖などからは、横穴墓も発見されています。

奈良時代には高座郡に13郷1駅があり、相模原市域にはそのうち3郷くらいの存在があったと推測することができます。

平安時代後期には武士団が各地に形成されたと言われ、市域南部は相模国高座郡の中部(現在の藤沢市長後から綾瀬市)にいた渋谷氏の影響下にあったと考えられます。
また、武蔵国横山庄(現在の八王子市域の多摩丘陵)を本拠とした横山党は南下して市域の相原・小山・上矢部・田名などへも進出しました。

中世の相模原

鎌倉時代の初め、市域に勢力を持っていた横山党は建保元年(1213年)の合戦で和田義盛に味方して、北条氏と戦い勢力を失いました。

鎌倉時代の末には、時宗の開祖一遍上人が当麻に来たと考えられ、二世真教上人はその故地に無量光寺を建立しました。

南北朝時代には、足利直義の家臣淵辺義博が淵野辺を領有していたと言われています。室町時代の後期には長尾景春の乱に際し磯部に城が築かれました。戦国時代の市域は、小田原北条氏の支配下に入り、当麻に関所が置かれました。

近世の相模原

江戸時代になると検地によって17の村が成立し、相模原は江戸に近いため、幕府の直轄領や譜代大名、旗本たちの知行地等に細分化されました。

江戸時代の中頃には、相模野の開発が始まり、幕末までに上矢部新田、大沼新田、淵野辺新田、清兵衛新田などが開かれました。江戸時代の後半には養蚕などの生産が向上し、俳諧など豊かな地方文化が育まれることとなりました。

明治以降の相模原

明治以後も、相模野の開発は行われましたが、規模は小さく、台地上には雑木林なども多く残されました。

明治22年の町村制施行により、清兵衛新田を含めた市域の18か村は合併して、相原・大野・大沢・田名・溝(後に上溝)・麻溝・新磯の7か村となりました。

一方、産業の面では繭や生糸の生産がますます盛んとなり、明治3年12月に開設された上溝市場はその取引の中心となりました。

明治41年横浜鉄道(現在の横浜線)、昭和2年小田原急行鉄道、同4年小田急江ノ島線、同6年相模鉄道(現在の相模線)が開通し、バス路線も各方面へ延長されました。

昭和12年以降になると、陸軍士官学校、相模陸軍造兵廠、その他の軍関係諸施設が続々と市域に移され、たちまち軍都として時代の脚光を浴びるようになりました。また、軍の施設の移転に合わせ県施行の相模原都市建設区画整理事業もスタートし、現在の本庁付近を含めた整然とした街区割ができました。昭和16年4月、上溝・座間・相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯の2町6か村が合併し、面積108.71平方キロメートルを有する当時の日本最大規模を誇る町、相模原町が誕生しました。(その後、座間町(現在の座間市)は分離独立)

市制施行と人口急増

第2次世界大戦の敗戦で、軍都計画は消滅しましたが、軍の諸施設の多くは米軍に接収され、相模原は基地の町となりました。

昭和25年の朝鮮戦争の勃発に伴い、昭和26年頃からわが国の経済も好転の兆しを見せ、相模原町内の米軍基地やその関連企業に多くの人が職場を求め、町の人口も次第に増え、昭和29年、全国で453番目、県下では10番目の市として、相模原市が誕生しました。当時の人口は約8万人、予算規模は約2億2千万円でした。

昭和30年、地勢の特色を活かして内陸工業都市を目指した相模原市は、工場誘致条例を制定して、工場の積極的誘致を図りました。
また、昭和33年8月、首都圏整備法による市街地開発区域第1号の指定を受けたことを契機として企業や住宅団地の進出が活発になりました。折から国の高度経済成長政策や、首都圏に位置していたこともあり、昭和30年代からはベッドタウンの様相も呈するようになりました。人口も昭和42年に20万人、昭和46年に30万人、昭和52年に40万人、そして昭和62年には50万人を突破するという全国でもまれにみる急増を続けています。平成12年に人口60万人を超え、平成15年には中核市に移行しました。平成18・19年の津久井地域(旧城山町・旧津久井町・旧相模湖町・旧藤野町)との合併により、人口70万人を超えるに至っています。 平成22年4月に政令指定都市へ移行しました。

出典