相模原周辺の社会福祉に関する情報と地域情報を紹介

じぇね太郎 じぇね太郎の旅
-きらきらと輝いていたあの頃あの場所へ-

地域ヒストリー

原始・古代時代の座間

座間の地には、今から2~3万年前の旧石器時代から人々が住み始めた跡(遺跡)が残っており、縄文時代の特に4~5千年前の土器や石器などが、相模川の河岸段丘、目久尻川両岸の台地で、数多く発見されています。
横穴古墳は、入谷・栗原地域に相当数発見されており、このころから、入谷・座間・栗原などの集落の骨格が形成されたと考えられます。
古代の座間は、交通の要所であったと記録され、奈良時代の「続日本記」や平安時代の「和名類聚鈔」にある相模国高座郡夷参(伊参)を座間の地と伝えています。

鎌倉時代の座間

鎌倉時代の座間は、渋谷重国が治め「渋谷庄」と称されていました。その後、室町時代には足利氏や上杉氏そして戦国時代には北条氏の支配下になりました。

江戸時代の座間

江戸時代になると市域の村々は、関東総奉行内藤清成が支配し、このころに新田宿村や四ツ谷村が成立し、座間村が座間入谷村と座間宿村に分村しました。
江戸中期には旗本の支配下となります。後期になると寺子屋教育、農業技術の習得、芸能など人々の生活に密着した文化活動が盛んになりました。

明治時代の座間

明治維新の廃藩置県により市域は神奈川県に所属。22年の町村制により、座間入谷村・座間村・栗原村・新田宿村・四ツ谷村の5カ村が合併し「座間村」になりました。

大正時代の座間

大正から昭和初期には鉄道や電気など近代化が進み、昭和12年には東京から陸軍士官学校が移転(現在のキャンプ座間)。その年の12月に町制を施行し、「座間町」となりました。周囲が軍都の様相を色濃くする中で、16年近隣の町村と合併し「相模原町」になりました。終戦後には、町民の分町の願いが実り23年に独立し新生「座間町」の出発となりました。

出典