相模原周辺の社会福祉に関する情報と地域情報を紹介

じぇね太郎 じぇね太郎の旅
-きらきらと輝いていたあの頃あの場所へ-

地域ヒストリー

先土器時代の横須賀

三浦半島に残る最も古いヒトの足跡は、約2万5000年前までさかのぼることが分かってき、最終氷河期の寒冷のピークにあたり、現在と比べ平均気温が5℃程低く、海面は現在より100m程低かったとされています。

縄文時代の横須賀

気温は今より2℃ほど高く、現在は見られない暖かい地方の生物も生息していました。
海水面は今より3~5mほど高く、現在の陸地に海水が入り込んでいました。
この時代には、土器や弓矢が発明されました。

弥生時代の横須賀

自然資源の採集に依存していた縄文時代は、しだいに資源が枯渇していきました。
稲作を行うムラができ、ほとんどのムラは次の古墳時代前期(4世紀ごろ)まで継続されました。
三浦半島ではこれらの生活様式をしめす遺跡は、弥生時代の中ごろ(約2000年前)から発見されています。

古墳時代の横須賀

農耕はしだいに各地に定着しました。
コメの収穫は年に1度であり、1度の失敗は1年分のコメを失い、そこで富の差がでてきました。
富める者は金属器などを容易に入手でき、富の差は大きくなり、支配・被支配の関係が生まれ、「豪族」が誕生しました。

豪族は富と権力の象徴として、多大な労力を使い大きな墓を作り、その中には普通では入手できない立派な品々を副葬しました。
この大きな墓を古墳と呼び、このころを古墳時代といいます。

三浦半島では5世紀以降の古墳が確認されてきました。

奈良時代の横須賀

相模の国にも国府(国の役所)のあった現在の海老名市の地に国分寺が建立されました。
国分寺は当時の最高の建築技術で建てられ、国家の偉業を人々に知らせるものでもありました。
国分寺が建立される以前には、有力な豪族が氏寺(私寺、初期寺院)を建てて仏教を信仰していました。

この氏寺のひとつが宗元寺であり、当時は奈良の大寺院と同じように現在の県立横須賀高校の敷地を含む広大な寺域を持ち、豪華な伽藍様式であったらしく、南北にのびる丘からは奈良・平安時代の瓦や須恵器(すえき)が出土しています。

平安時代の横須賀

平安時代後期から戦国時代初期にかけて、三浦半島で勢力をふるっていた武士は三浦一族でした。
三浦一族のはじまりは、桓武天皇(平氏)の皇子の子孫の流れをくむ村岡為通(ためみち)であるといわれています。
為通は源頼義にしたがって前九年の役に参加し、その功績が認められて三浦半島を与えられ、三浦氏を名のったといわれています。
為通は三浦半島のほぼ中央部にあたる衣笠に城を築きました。為通の子為継は源義家に従って後三年の役で活躍し、またその子義継は子義明と共に天養元(1144)年、伊勢神宮領の大庭御厨(おおばのみくりや・神奈川県藤沢市)に侵入する源義朝を助けるなど、三浦氏は源氏と深いつながりを持ち、相模国で最大の武士団に成長します。

鎌倉時代の横須賀

日蓮は房州(今の千葉県)から相模国(今の神奈川県)へ舟出しましたが、その途中、突然風波により舟は沈没しそうになりました。
しかし日蓮は助かりとある島に着くことができました。
この島に上陸した日蓮は、島の一角に立って声高らかに法華経を唱えていると、不思議にも白猿が姿を現し、しきりに日蓮の袖を引いて陸地を意味あり気に指しました。
このことから、この島はいまでも「猿島」と呼ばれています。

室町時代の横須賀

盛時の玄孫時継は中先代の乱(建武2(1335)年)で北条時行に属しましたが、その子高継は足利尊氏に従って勲功があり、相模大介職以下父の遺領等を与えられました。
その後代々相模守護として威勢を振るい、さらに時高、義同(よしあつ)に至り、再び相模国に覇を唱える勢力となりました。

しかし永正13(1516)年、相模国に野心を持つ北条早雲によって義同、義意(よしおき)の父子は新井城の合戦で滅ぼされ、ここに三浦一族は滅亡し、三浦半島は小田原北条氏が支配するようになりました。その小田原北条氏も天正18(1590)年に豊臣秀吉に滅ぼされ、以後、三浦半島は徳川家の領地となります。

安土桃山時代の横須賀

三浦安針の来航慶長5年3月16日(1600年4月29日)九州豊後(現在の大分県臼杵市)にオランダ船リーフデ号が来航しました。リーフデ号の航海士ウィリアム・アダムズは西洋の科学知識と人柄を徳川家康に見込まれて、側近として召し抱えられ幕府の外交顧問として活躍しました。アダムズの尽力によって平戸にオランダ商館とイギリス商館が設立され、日本と両国との交流が始まります。

家康からの信任が厚かったアダムズは江戸日本橋に屋敷を、相州三浦郡逸見村(現在の横須賀市逸見)に領地を与えられ、三浦按針という日本名を名乗りました。
「三浦」は逸見の領地があった三浦郡の地名から、「按針」はアダムズが航海士の職にあったために付けられたようです。

江戸時代の横須賀

ペリー提督は、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、対日交渉の全権を与えられ、浦賀沖に来航しました。
ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表、戸田伊豆守(いずのかみ)、井戸石見守(いわみのかみ)に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求しました。
はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して翌嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよいでしょう。

明治時代の横須賀

1869年(明治2年)
観音埼灯台点灯開始
1870年(明治3年)
西浦賀と東浦賀が合併して浦賀村となる
1876年(明治9年)
横須賀村と浦賀村が町となる
1878年(明治11年)
郡区町村編成法が施行され、三浦半島の全地域は三浦郡となる
1884年(明治17年)
横須賀鎮守府が設置される
1889年(明治22年)
市制、町村制が施行される
横須賀線開通(横須賀~大船間)
1907年(明治40年)
横須賀市の誕生

大正時代の横須賀

1916年
追浜に海軍航空隊が開設される
1923年(大正12年)
関東大震災で大きな被害を受ける

近代の横須賀

1933年(昭和8年)
衣笠村が横須賀市に合併
田浦町が横須賀市に合併
1937年(昭和12年)
久里浜村が横須賀市に合併
1943年(昭和18年)
浦賀町、逗子町、大楠町、長井町、北下浦村、武山村が横須賀市に合併
1950年(昭和25年)
横須賀市から逗子市が分離独立
1977年(昭和52年)
横須賀市の人口40万人を突破

出典