地域ヒストリー
原始時代の山北町
山北の歴史は古く、遺跡では石斧や土器、竪穴住居跡などが発見された尾崎遺跡(三保)や共和小学校遺跡(共和)など、今からおよそ五千年前の縄文時代中期までさかのぼります。
大陸から稲作文化が伝わった弥生時代では、堂山遺跡(山北)などに生活の痕跡を見ることができます。
大陸から稲作文化が伝わった弥生時代では、堂山遺跡(山北)などに生活の痕跡を見ることができます。
古墳時代の山北町
古墳時代になると、地域の権力者があらわれ、南原古墳群(岸)や水上古墳群(向原)などが造られるようになります。
平安時代の山北町
平安時代末期には、秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の子秀高が河村を名乗り、河村城を居城に山北の地を治めることになります。このころの山北は、川村郷もしくは河村郷と呼ばれ、川村向原、川村岸、川村山北、皆瀬川、都夫良野、谷峨、湯触、川西、山市場、神縄、世附、中川、玄倉の13ヶ村からなっていました。川村郷の各村落がいつごろから形成されたかはあきらかではありませんが、村名は一般庶民が生活環境からつけた素朴な地名が多く、向原、岸、山北なども自然の景観からつけられたと考えられます。
鎌倉時代の山北町
『吾妻鏡』や『新編相模国風土記稿』によれば、河村秀高の子義秀は源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏側に味方したため領地を没収されますが、流鏑馬の妙技により河村郷に復帰できたとあり、県指定無形民俗文化財「室生神社の流鏑馬」の起源と考えられています。
建武の中興の時代、新田氏の鎌倉攻めの際には、河村氏は南朝側に味方し活躍しますが、北朝の足利尊氏軍に敗れてしまいます。
建武の中興の時代、新田氏の鎌倉攻めの際には、河村氏は南朝側に味方し活躍しますが、北朝の足利尊氏軍に敗れてしまいます。
江戸時代の山北町
小田原藩に属し、川村向原、川村岸、川村山北、皆瀬川、都夫良野、谷峨、湯触、川西、山市場、神縄、世附、中川、玄倉、平山の14ヶ村で構成されていました。元禄の大地震、宝永の富士山噴火により、山北は一時幕府領になるほどの大被害を受けます。また、大量の降灰により皆瀬川が氾濫を繰り返したため、時の名主湯山弥五右衛門らが中心となり、掘割によって洪水を防ぎましたが、反対に水不足に悩まされ、川入堰や瀬戸堰などの用水建設に力を注ぐことになります。
明治時代の山北町
大政奉還により江戸時代が終わりを告げ明治時代になると、世の中は大きく変わります。山北は、廃藩置県により明治4年に足柄県に、9年には神奈川県に編入されます。明治22年町村制施行と同時に、川村向原・川村岸・川村山北を併せて川村、皆瀬川と都夫良野の2ケ村が合併して共和村になります。
他には、各地域に学校がつくられ、明治22年の東海道線の開通で山北駅が開業すると、山北も鉄道の町として大きく変わっていきます。
他には、各地域に学校がつくられ、明治22年の東海道線の開通で山北駅が開業すると、山北も鉄道の町として大きく変わっていきます。
大正時代の山北町
一層鉄道の町の様相が強くなり、山北駅前には多くの商店が軒を並べ、演芸場や呉服店、馬力屋、薬屋、医院などで大変な賑わいでした。このころの山北駅周辺は、鉄道唱歌や童謡「汽車ポッポ」などに唄われるほか、「線守稲荷」の民話、山北駅名物「鮎寿司弁当」なども生まれました。
大正12年には谷ケ、山市場、川西の3ケ村が合併して清水村になります。
大正12年には谷ケ、山市場、川西の3ケ村が合併して清水村になります。
近代の山北町
昭和9年、丹那トンネルの完成により国府津~沼津間は御殿場線となっていて。しばらくして、日本は太平洋戦争への道を歩み、山北も空襲による被害を受けることになります。