1940年代以前の生まれ

出来事

第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)開催

1920年2月24日に東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」の第1回目が開催された。

第1回の箱根駅伝での総合順位は
1位:東京高等師範学校:15時間05分16秒
2位:明治大学:15時間05分41秒
3位:早稲田大学:15時間15分31秒
4位:慶応義塾大学:16時間50分56秒、であった。

画像は、読売新聞運動部の著書「増補版 - 箱根駅伝 - 世界へ駆ける夢」の販売ページにアクセスできます。

宝塚歌劇団発足

宝塚歌劇団

1914年から劇を行っている宝塚歌劇団。
舞台に出演するのは宝塚音楽学校の卒業生で、全員未婚の女性である。
当時は、ヅカガールと呼ばれているが、現在では、タカラジェンヌの愛称で親しまれている。

阪急電鉄の一部門であり、阪急阪神東宝グループのエンターテイメント・コミュニケーション事業運営はであるが、運営は別会社扱いではなく、阪急の直営であり、阪急電鉄創遊事業本部歌劇事業部が行っている。
このため、歌劇団員は阪急電鉄の正社員扱いとなっている。

画像は、REIJIN(宝塚歌劇団OG)のBlu-ray「麗人REIJIN -Showa Era- コンサート」の販売ページにアクセスできます。

モダンボーイ・モダンガール登場

モボ・ボガ

この時期、「大正デモクラシー」の時流に乗って、男性に限られてはいるが普通選挙が実施され、教育の分野においては大正自由教育運動がおこり、かつては一部高等子弟にだけ許された教育が徐々に一般庶民へも拡大し、 個人の自由や自我の拡大が叫ばれ、進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれた。

新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。 男女を問わず、「モダンであること」が最大の特徴である。

「モダン・ボーイ」と「モダン・ガール」を略して「モボ・モガ」と言われていた。

画像は「モボ・モガの時代―東京1920年代」の販売ページにアクセスできます。

流行語

銀ぶら(銀ブラ)

銀ぶら

大正時代からの俗語で、「銀座の街をぶらぶら歩くこと」である。「銀ブラ」とも表記する。

近代に入ってから、銀座が商業都市として著しく発展したことを背景に、この風俗・言葉は発生した。

1918年の服部嘉香・植原路郎編『新らしい言葉の字引』(実業之日本社)に「銀ブラ 銀座の街をぶらつく事」と記され、これが現時点では「銀ぶら」に言及した最も古い文献と見られる。

画像は、朝日新聞の著書「ギンザシックスと銀座の進化 古くて新しい銀ブラの尽きない魅力」の販売ページにアクセスできます。

男装の麗人(水の江 瀧子)

水の江 瀧子

男の出で立ちをした、 容姿の端整な女子を指す語。
1930年では少女歌劇で男役に扮する女優のことを指す。

フィクション方面でよく扱われるが、男装する理由は多様でその事自体が物語やキャラクター造詣の上で重要な意味を持つ事も多い。

東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹歌劇団)で水の江 瀧子が日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名をとったのが事から使われるようになった。

おもちゃ

セルロイド製キューピー人形

キューピー人形

日本初のキャラクター商品セルロイドキューピーが大流行。
東京のデパートにはキューピー用に特設の売り場も出現。
様々なキューピー人形が展開されて、黒い目にチャンチャンコを着せた日本製キューピーも誕生。

絵本や広告に使用され始めた。
マヨネーズを日本に持ち込んだ中島 董一郎(なかしま とういちろう)による会社のマスコットとして起用。

画像は「国産キューピー 28cm」の販売ページにアクセスできます。

コリント・ゲーム

コリント・ゲーム

ピンボール及びパチンコの変種。

パチンコ台が垂直に並んでいるのに対して、横モノとも呼ばれ、パチンコ店ではかつて、パチスロが出回る以前に遊技機として流通した。

日本へは昭和初期に小林脳行がピンボールゲームの一種をコリントゲームの名で紹介し、流行をもたらした。

釘を植え穴を開けた盤上に10個の鉄製の小球を順次発射し、穴に記された得点を合計して競うゲーム。

遊技者は、硬貨投入口に100円(ないしいくらかの料金)を払うと、前面からボールが数十個(4号営業の店では25個)降りてくる。
そのボールをピンボールの要領で発射し(パチンコのハンドルと同様の形状の機種もある)玉の獲得を狙う。

入賞口に入ると、5個から15個が払い出される(連勝穴といって、2個の穴に入賞して初めて払い出しのある入賞口もある。連勝穴の一方に入ると穴にボールがはまったままになり、もう一方の穴に入った時点で両方のボールが落ちて入賞となる)。

映像作品

マダムと女房

マダムと女房

1931年(昭和6年)公開の日本映画。
五所平之助監督。松竹蒲田撮影所製作。
日本初の本格的なトーキー映画でもある。もとの題名は『隣りの雑音』。
松竹蒲田撮影所長の城戸四郎はトーキーの導入に熱心だった。

1931年に土橋武夫・土橋晴夫兄弟が国産の「土橋式」トーキーの開発に成功し、これを受けて城戸は本作を製作。日本初のトーキー映画となった。
全編同時録音で撮影され、カットの変わり目で音が途切れぬよう、3台のカメラを同時に回して撮影された。

初のトーキー映画を意識していると見え、全編にわたってラジオの音声や猫の鳴き声、目覚まし時計の鳴る音など日常生活の音が数多く取り入れられている。
1931年度のキネマ旬報ベストテンで第1位にランクインされた。

画像は「あの頃映画 マダムと女房/春琴抄 お琴と佐助」のDVD販売ページにアクセスできます。

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  • 何が彼女をそうさせたか

    何が彼女をそうさせたか

    1927年(昭和2年)に発表された6幕9場の藤森成吉作の日本の戯曲およびこれを原作とする1930年(昭和5年)、帝国キネマ演芸製作の日本の長篇劇映画。
    藤森成吉の同名戯曲を鈴木重吉が脚色・監督した。

    公開当時に流行し、社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作としても知られる。

    映画は大ヒットし、浅草では異例の5週間続映という記録を作った。
    また、翌年には新興キネマで鈴木監督・高津主演で『何が彼女を殺したか』が公開されている。1930年度のキネマ旬報ベストテンで第1位にランクインし、高い評価も集めた。

    オリジナルはサイレントだが、トーキーへの移行を見込んで最終エピソードのみ再撮影の上トーキー化したサウンド版も制作されており、初代江戸家猫八が効果音を担当した。

    しかし、使用されたレコードは現在も行方不明となっている。
    主人公は、中村すみ子。母は男とともに行方をくらまし、父はのたれ死、おまけに叔父には利用される。様々な仕事を転々とし、絶望のなか自殺を図るが助けられる。

    しかし、収容された慈善施設もすみ子にとっては必ずしも安住の地ではなかった。

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    書籍

    生命の實相

    生命の實相

    昭和初期から中期の谷口雅春の代表的著書。
    宗教法人「生長の家」の聖典の一つ。頭注版・携帯版は全40巻。愛蔵版は全20巻。初版(復刻版)、点字版もある。

    初期には豪華版というものも刊行されていた。日本教文社刊。生長の家では「是を神が谷口雅春に書かせたもの」とする。
    1900万部以上を売り上げたロングセラー。

    昭和初期にはこの本を読むことで周囲の人と調和したり病気が治癒したりするなどの「奇跡」が起きたことが生長の家の拡大に寄与したとされる。

    画像は「生命の實相 第1巻 単行本」の販売ページにアクセスできます。

    放浪記

    放浪記

    作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説。

    舞台化、映画化、テレビドラマ化された。
    「私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない…したがって旅が古里であった」との出だしで始まる本作は、第一次世界大戦後の暗い東京で、飢えと絶望に苦しみながらもしたたかに生き抜く「私」が主人公。

    尽くした「島の男」との初恋に破れ、夜店商人、セルロイド女工、カフエの女給などの職を転々とする。

    ひどい貧乏にもめげず、あっけらかんとした姿が多くの読者をひきつけ、ベストセラーとなった。

    画像は「放浪記 (新潮文庫)」の販売ページにアクセスできます。

    ヒット曲

    影を慕いて

    影を慕いて

    藤山一郎のヒット曲。昭和流行歌の傑作のひとつとされる。
    1932年(昭和7年)3月新譜で日本コロムビアから改めて藤山一郎の歌唱によって発売され、満州事変、五・一五事件など暗い世相を背景に人々の心をとらえ流行した。

    まさに昭和という時代の「翳」を象徴していた。
    その後もこの曲は、美空ひばり、森進一など多くの歌手によって歌われ、それぞれの歌手が曲の哀愁・感傷(センチメンタリズム)を個性的に表現してきた。

    画像は「古賀メロディー で綴るスター大競演 影を慕いて 東京五輪音頭 酒は涙か溜息か 古賀政男 CD2枚組」の販売ページにアクセスできます。

    東京ラプソディ

    東京ラプソディ

    1936年(昭和11年)6月にテイチクから藤山一郎の歌唱によって発売された昭和歌謡。

    作詞は門田ゆたか、作曲は古賀政男。昭和モダン末期の東京を歌ったフォックストロット調の作品で、35万枚を売り上げヒットした。藤山主演による同名の映画も制作。

    作曲を担当した古賀政男は『東京ラプソディ』について、自身が「銀座、浅草、新宿という盛り場が見事に歌い込まれて心憎いばかり」と評価する『東京行進曲』(1929年(昭和4年)発売。作詞・西条八十、作曲・中山晋平)を目標に、「もう少しモダンになった東京を書いてみたい」という考えのもとに制作したと述べている。

    古賀によるとフォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作ったという。

    画像は「東京・永遠の大ヒット~東京五輪音頭・東京ラプソディ」の販売ページにアクセスできます。

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