1973年(昭和48年)生まれ

出来事

オイルショック

オイルショック

1973年(昭和48年)10月に勃発した第4次中東戦争を機に,アラブ産油国は石油生産の削減と原油価格の大幅引き上げという石油戦略を発動し、“オイルショック”が世界を襲った。

このオイルショック、すなわち第1次石油危機は日本経済に大きな影響を与え、経済活動に大混乱をもたらし、トイレット・ペーパー、洗剤などの買いだめ騒動が全国で起こった。

流行語

省エネ

省エネ

1973年に起こったオイルショックで、石油の供給が止まるのではないかという恐れから、日本中が大混乱に陥り、街のネオンは消え、テレビの放送時間も短縮された。

原油価格の高騰に対処するには、まず第一に重油と電力の使用量を減らすこと、すなわち“省エネルギー”を徹底させることが肝要であり,また工場個々でなく全社を一本化して対策を講じることが効率的だということから、この省エネ(省エネルギーの略)という言葉が全国的に流行した。

1979年にその教訓から、エネルギーの効率的な利用を促進する省エネ法が設けられた。

せまい日本、そんなにいそいでどこへ行く

せまい日本、そんなにいそいでどこへ行く

1972年(昭和48年)の全国交通安全運動の標語募集で総理大臣賞を受賞した秀作。年間を通じて全国の交通安全スローガンとして街に張られ、マスコミにも取り上げられ、国民も自然に口を衝いて出るほど、定着した標語だった。

背景としては、大阪万国博(1970年)の後、爆発的に巻き起こったマイカー時代突入によって交通死亡事故が急増したため、スピード違反による重大事故を減らすために高知県の警察官が作った標語だった。

映像作品

ジョニーは戦場へ行った

ジョニーは戦場へ行った

戦争によって両手足と顔を失った青年ジョニーは己の内面と向き合い、戦争とは何か、生きるとは何かを自問する。

ジョーは今、野戦病院のベッドで静かに横たわっている。

第一次大戦の中、彼はほとんどの器官を失う大怪我を負いここに運ばれてきたのだ。

真の暗闇の中でジョーは想う。 釣り好きだった父と過ごした日々や、出征前夜に恋人と交わした愛の営み......。

やがてひとりの看護婦がジョーの胸に書き記した文字によって彼は外界との繋がりを持つのだった。

D・トランボの小説を自身の脚色・初監督で完成させたトランボ渾身の反戦映画で、戦争の残酷さと人間の尊厳を鮮烈に表現した戦争映画の名作である。

カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを始め、数々の映画賞に輝き、空前の大ヒットとなった。

画像は「ジョニーは戦場へ行った」のDVD販売ページにアクセスできます。

ヒット曲

イエスタディ・ワンス・モア/カーペンターズ

イエスタディ・ワンス・モア/カーペンターズ

日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲で、オリコン洋楽チャートでは26週連続1位を記録した。

カーペンターズは、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の兄妹が中心メンバーのポップ・ミュージック・グループ。ピアノとアレンジを兄のリチャードが受け持ち、ヴォーカルを妹カレンが担当した。

ロック全盛の1970年代において独自の音楽スタイルを貫き、大きな成功を収めた。

1983年のカレンの死により活動を終えた。

画像は「Yesterday Once More」のCD販売ページにアクセスできます。

夢の中へ/井上陽水

1972年、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。

1973年3月リリースの「夢の中へ」が初のヒット。同年12月リリースのアルバム「氷の世界」が日本初のミリオンセラーとなり大ブレークし、井上陽水はフォーク界の頂点に君臨していった。

シンガーソングライターとして活動する傍ら、数々の楽曲を提供している。

自身のバックバンドを務めていた "安全地帯" や、 "中森明菜" などに提供する他、"PUFFY" のデビュー曲として歌詞を提供した「アジアの純真」は大ヒットを遂げた。

    ~主なヒット曲~
  • 人生が二度あれば(1972年3月)※デビュー曲
  • 傘がない(1972年7月)
  • 東へ西へ(1972年12月)
  • 夢の中へ(1973年3月)
  • 心もよう(1973年9月)
  • 氷の世界(1973年12月)
  • 闇夜の国から(1974年4月)
  • 夕立(1974年9月)
  • 青空、ひとりきり(1975年11月)
  • ジェラシー(1981年6月)
  • いっそセレナーデ(1984年10月)

画像は「夢の中へ(初回限定盤)」のCD販売ページにアクセスできます。

学生街の喫茶店/ガロ

「学生街の喫茶店は、GARO(ガロ)の3枚目のシングル。作詞は山上路夫、作曲は1980年代以降にテレビゲームソフト『ドラゴンクエストシリーズ』のゲームミュージックを手がけた、すぎやまこういちである。

山上路夫によると具体的に参考にした店はなく、山上自身に大学生活の経験もないということである。

作曲は、1972年6月20日に、日本コロムビアのDENONレーベルから発売され、1973年の春先で、オリコンヒットチャートでは2月19日から4月2日まで7週連続で1位を獲得。

1973年の年間ヒットチャートで第3位を記録し、同年を代表する大ヒット・ソングとなった。

『第24回NHK紅白歌合戦』でも本楽曲を披露。1976年に、教育芸術社発行の高校の音楽教科書『高校音楽1』に「学生街の喫茶店」が掲載された。

画像は「思い出の フォーク ポップス」のCD販売ページにアクセスできます。

南こうせつとかぐや姫の大ヒットソング「神田川」(1973年発売)は、作詞は喜多條忠、作曲は南こうせつで、1970年代の若者文化を象徴する作品のひとつに数えられており、上京する若者が1度は夢見る情景を描いた歌として、現在でも人々の記憶に残っている。 また、中野区内の末広橋近くの公園には「神田川」の歌碑が建てられている。

なお、実際の歌の舞台はもっと下流の戸田平橋付近であったし、喜多条が住んでいた「下宿」は豊島区高田と言われている。

画像は「神田川」のCD販売ページにアクセスできます。

arrow_upward