54歳~55歳 1969年(昭和44年)生まれ
ここでは1969年の流行や出来事を表示しています。
出来事
東大安田講堂事件
東大紛争は、1968年に医学部学生による「インターン制度」への反発が発端だった。
インターン制度は、戦後GHQによって制定され、研修医として無給で1年間働かなければ医師資格試験(国家資格)を受験できないという制度だった。
これに対し医学部学生は、自主研修協約を東大医学部附属病院に提出したが、大学側がこれを拒否したため医学部学生自治会は1969年1月、無期限ストライキを決行した。
ストライキに参加した学生は約900人にも上り、卒業試験や卒業式をボイコットしたが、大学側もまた譲歩姿勢を崩さず、1月18日東大に機動隊8500人導入、安田講堂など占拠の学生と攻防戦が続き、19日安田講堂封鎖が解除された。
その後、これに日米安全保障条約が更新されることによって、日本がベトナム戦争に巻き込まれるのではないかという強い懸念が生じ、学生運動はさらに進んでいくことになる。
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アポロ11号・人類初の月面着陸に成功
フォークブーム
1960年代後半頃、ボブ・ディランの反戦歌やトラディショナル・フォークの影響を受けた岡林信康、クルセイダーズ、高石友也、高田渡らが注目され、若者たちの間で、世界的なベトナム反戦運動の一環として反戦を唱えるフォークソングが流行っていた。
1969年、「1970年安保」を翌年に控え、安保反対を唱える学生やサラリーマンなどが、東京・新宿西口地下広場に集い、プロテストソングやフォークソングを歌っていたが、これに「ベ平連」も加わり、連日ゲリラ的な集会「フォークゲリラ」を続けていた。
同年8月、機動隊はこの「フォークゲリラ」に突入し、抵抗する彼らに対し催涙ガス弾を使い、強制排除に踏み切った。
1970年代に入ると、コンサートやラジオの深夜放送を通じて、吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫らによる抒情的な曲のヒットが続いた。
フォークソングは反戦的な内容のものは徐々になくなり、自らの内面を吐露したものが主流となっていった。
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流行語
アッと驚くタメゴロー
やったぜ、ベイビー
60年代から70年代、数々の番組で司会を務めた大橋巨泉が、テレビ番組の中で、何かに成功したりクイズに正解した時などに使ったり、ドリフターズの加藤茶がコントの中で使ったりして、世間でも良く使われた。
映像作品
8時だョ!全員集合(TVバラエティ)
サインはV(TVドラマ)
1964年の東京オリンピック・女子バレーボール"東洋の魔女"は全勝同士の対決で見事ソ連を破り「優勝」金メダルを獲得したが、その後、日本中でバレーボールブームが起った結果生まれた作品と言える。当作は先に「週刊マーガレット」で人気となっていた「アタックNo.1」への対抗馬が欲しいという「少女フレンド」編集部の要請から企画された。このため「アタックNo.1」がまだ少女マンガ的な路線を残していたのに対し、特訓もあれば魔球もありと「アタックNo.1」との違いを打ち出した。
1969年版のテレビドラマはTBS系で放送。実写スポ根ドラマ(スポーツ根性ドラマ)の草分け的番組となり、大人から子供まで広い年齢層に熱狂的な支持を受け、最高視聴率39.3%、平均視聴率32.3%を誇る大ヒット・ドラマとなった。
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タイガーマスク(TVアニメ)
梶原一騎の漫画「タイガーマスク」をアニメ化した作品。
東映動画製作でアニメ化され、よみうりテレビ・日本テレビ系列にて1969年10月2日から1971年9月30日まで全105話が放映された。
原作の連載とほぼ同時進行で放送されていたが、中盤でアニメ版の進行が漫画連載に追いついてしまったため、徐々にオリジナルストーリーが目立つようになっていき、終盤では一部原作の要素は取り入れているものの、まったく別の展開となった。
全盛期のアニメの視聴率は30%を超えていた。
孤児院「ちびっこハウス」で育った主人公・伊達直人が悪役レスラーの養成所「虎の穴」にスカウトされ、苦しいトレーニングを積んだ後にタイガーマスクとしてプロレスデビューする。
デビュー後、ファイトマネーを経営難に陥る孤児院にのみ寄付し、「虎の穴」への上納を怠ったとして裏切り者と扱われ、さまざまな悪役レスラーの刺客を送り込まれ、デスマッチを挑まれることとなる。
悪役レスラーとして育て上げられたタイガーマスクだが、(正体を明かしていないものの)孤児院の子供たちのために正統派レスラーとして戦っていく物語。
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ヒット曲
黒ネコのタンゴ
1969年のイタリアの童謡、およびその日本語カバー曲。
各国の多くの歌手によってカバーされている。
黒ネコのタンゴ」の原曲は、1969年3月のイタリアの童謡コンテスト「第11回ゼッキーノ・ドーロ」(ゼッキノ・ドロとも表記される)で第3位に入賞した曲「Volevo
un gatto nero」。
日本では1969年10月5日に皆川おさむのデビュー曲として発売された。
フィリップスからシングル盤『黒ネコのタンゴ』が発売されるとオリコンで14週連続1位を記録、シングルセールスは公称260万枚(資料によっては230万枚)の大ヒットとなった(1969年の年間第5位・1970年の年間第1位)
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時には母のない子のように
「時には母のない子のように」は1969年に寺山修司が主宰する劇団「天井桟敷」に新人女優として入団したカルメン・マキのデビュー曲として企画され、リリースされた。
作詞は寺山が手掛け、寺山の秘書を務めていた田中未知が作曲を手掛けている。
本曲で、カルメン・マキは1969年の第20回NHK紅白歌合戦に出場を果たした。
作詞の寺山は、本作を作るに際してゴスペルソングとして有名なSometimes I feel like a motherless
chil(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)から発想を得た。
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白いブランコ
夜明けのスキャット
1番は具体的な歌詞が全く登場せず、大半が「ルー、ルールルルー…」というスキャットで歌われる楽曲である。
「夜明けのスキャット」は実は元々発売予定がなく、1969年にTBSで放送していたラジオ番組「夜のバラード」のオープニングとして作られた曲であった。
曲を聞いたリスナーからお便りが連日ダンボール2箱分が送られ歌詞とタイトルがついて発売されたものである。
オリコンのシングル週間ヒットチャートで8週に渡って第1位を獲得し、109万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。
また、1969年の年間ヒットチャートでも第1位に輝いた。
作詞:山上路夫/作曲:いずみたく/編曲:渋谷毅
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