1967年(昭和42年)生まれ

出来事

ツイッギー来日 / 日本にミニスカートブーム到来

ツイギー写真

1967(昭和42)年10月18日、イギリスのファッションモデル、ツイッギー(当時18歳)が来日した。

「小枝のような」という意味のその芸名は、プロポーションのよさからつけられたもの。

前年の66年にデビューするや、細く長い手足でミニスカートを着こなす姿が一躍脚光を浴び、「ミニの女王」と呼ばれていた。

ツイッギーを日本に招待した東洋レーヨン(現・東レ)だった。

東洋レーヨンの当時の宣伝部長は、前年のビートルズの武道館公演を観て時代の新しい流れを感じ、ミニスカートの普及のためツイッギーを呼ぼうと決めたという。

1967年10月18日、東レ・トヨタ・森永製菓の3社合同招待により来日したツイッギーは「森永・チョコフレーク」や「トヨタ・コロナ」などのCMに出演。

更に週刊誌「女性自身」がモデルとして契約、表紙を飾った。

これによりツイッギー旋風が起こった日本では、世代を超えてミニスカートが大ブームとなり、2年後には、時の佐藤栄作首相の寛子夫人が渡米時に着用するまでになり、陰りが出ていた繊維産業に、莫大な経済効果をもたらした。

画像は「ツイッギー 写真(小) Portrait Photograph #1 Twiggy ツイギー」の販売ページにアクセスできます。

流行語

核家族

核家族

米国の人類学者であるジョージ・マードックが人類に普遍的ですべての家族の基礎的な単位という意味で用い始めた"nuclear family"という用語の和訳である。

夫婦や親子だけで構成される家族のことである。

日本では、高度経済成長期に親元を離れ、都市部で働き始め結婚、そして家庭を築いた為に起きた現象である。

1957年頃流行語となった。

1950年代末からの高度経済成長とともに、核家族化が急速に進展したといわれている。

1960年に59.1%だった核家族率は、2015年には86.7%となり、それとともに、36.5%だった「その他の親族世帯」の割合は、13.3%にまで減少する。

映像作品

コメットさん(特撮TVドラマ)

コメットさん

全部で2期制作されたテレビシリーズであるが、第1期は九重佑三子主演で、1967年7月3日~1968年12月30日(全79話)いずれも毎週月曜19:30~20:00の30分ドラマである。

宇宙のかなたからやってきたヒロイン・コメットが地球に降り立って、「地球での困りごとを魔法を使って解決していこう」というコンセプトは共通である。

アメリカ映画『メリーポピンズ』がヒントとされている。

魔法にはバトンを使用する、お手伝いさんとして住み込んでいる、歌が重視されている、そしてそれぞれ住み込んでいる家庭の父親または母親が歌う点も共通している。

画像は「コメットさん」のDVD販売ページにアクセスできます。

意地悪ばあさん(TVドラマ)

「意地悪ばあさん」は、長谷川町子の4コマ漫画作品。

「いじわるばあさん」を原作として製作された日本のテレビドラマで、青島幸男が主演した。

放映は日本テレビ系列(1967年9月~1969年9月)。全104回。出演:青島幸男、古今亭志ん馬、高松しげお、佐藤英夫ほか。

意地悪ばあさんこと、波多野たつ、当年69歳。夫に先立たれ、長男の平四郎を女手ひとつで育て上げ、大学まで出したと自信満々。

だが、平四郎はなんとも頼りなく、嫁の良子の尻にひかれっぱなし。

そこでばあさんは、反骨精神旺盛な孫のよしおと手を組んで、意地悪の開始した。

画像は「意地悪ばあさんのうた」のCD販売ページにアクセスできます。

仮面の忍者 赤影(特撮TVドラマ)

「仮面の忍者 赤影」は、横山光輝作の忍者漫画、およびそれを映像化した特撮テレビ番組・テレビアニメ作品・劇場映画。

ストーリーは「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に『金目教』という怪しい宗教が流行っていた。

それを信じない者は恐ろしい祟りに見舞われるという。その正体は何か。

藤吉郎は金目教の秘密を探るため、飛騨の国から仮面の忍者を呼んだ…」という第一部のアバンタイトルにあるように藤吉郎は天下平安を願い、飛騨の里の影一族に助けを求め、赤影、白影、青影の三人の忍者が駆けつける。

かくして彼らは藤吉郎の命を受け、金目教配下の奇っ怪な忍者集団との戦いを繰り広げてゆく。」というものだ。

この原作は、その後東映京都と関西テレビによって特撮テレビドラマ『仮面の忍者 赤影』として実写化され、全52話が1967年4月5日 - 1968年3月27日まで関西テレビおよびフジテレビ系列で毎週水曜日19:00 - 19:30に放送された。

画像は「仮面の忍者 赤影」のプライムビデオにアクセスできます。

ヒット曲

ブルーシャトウ / ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

ブルーシャトウ

1957年結成したブルーコメッツは、1963年にジャッキー吉川がリーダーとなり『ジャッキー吉川とブルー・コメッツ』として新生スタートした。

1966年3月の、ビートルズ来日武道館公演には前座として出演した。

同月「青い瞳」でレコード・デビューを果した。

続く「青い渚 」「何処へ 」と次々と大ヒットを飛ばし、1967年3月にリリースした「ブルーシャトウ」は150万枚という驚異的な数字を記録した。

この曲で日本レコード大賞をも受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。

NHKが、あの頑なに拒んでいたGSも唯一出場を許したグループだった。

画像は「ブルー・コメッツ オリジナル・ヒット第2集」のアマゾンミュージックにアクセスできます。

世界は二人のために/佐良直美

「世界は二人のために」は、1967年5月15日に発売された佐良直美のデビューシングルである。

作詞:山上路夫、作曲:いずみたく。

この曲が大ヒットした結果、1967年の第9回日本レコード大賞で新人賞を受賞し、同年大晦日の『第18回NHK紅白歌合戦』に初出場した。

画像は「世界は二人のために」のアマゾンミュージックにアクセスできます。

この広い野原いっぱい/森山良子

森山良子は、1967年1月、フィリップス・レコードより自身の作曲である「この広い野原いっぱい」でレコード・デビューする。

「恋はみずいろ」「愛する人に歌わせないで」とヒット曲を飛ばし、1969年3月リリースの「禁じられた恋」が大ヒットし、オリコンチャート8週連続で1位を獲得、80万枚の売り上げを記録した。

同年の『第11回日本レコード大賞』では作詩賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。

森山良子は、日本のジョーン・バエズと呼ばれていた。

画像は「この広い野原いっぱい」の販売ページにアクセスできます。

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