1940年代の生まれ
ここでは1940年代の出来事や流行を表示しています。
出来事
戦争中の暮しの記録
東京オリンピック開催権返上
流行語(標語)
ぜいたくは敵だ!/ 欲しがりません勝つまでは
日中戦争や第二次世界大戦の戦時下では、国民に向けた 戦意高揚、生活統制、精神動員
などのための「標語」が盛んに作られ、それらは 国策標語 などとも呼ばれた。
それらの中でも、戦争に関するものは、戦時下標語、戦時標語と呼ばれる。
「ぜいたくは敵だ!」も1940年(昭和15)ころから、東京市内のいたるところに立てられた立看板に書かれた戦時標語である。
1字挿入して「ぜいたくは素敵だ!」に、また「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」から1字削除して「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」というイタズラもあった。
他に「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」もある。
以外にも、町の人たちはしたたかさを失っていなかった。
画像は「戦時下標語集 単行本」の販売ページにアクセスできます。
月月火水木金金
土日返上で働くという意味を表す慣用表現。
もとは大日本帝国海軍で用いられたのが始まり。
海軍は日露戦争勝利後も、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに休日返上で猛訓練を行っていた。
1908年(明治41年)に当時海軍大尉だった津留雄三(のち海軍大佐)が、「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉が、やがて海軍中に広まったものとされる。
1940年に上記を元にした軍歌が作曲され、当初はまったく売れなかったが、日本放送協会職員の偶発的なミスによるラジオ放送がきっかけとなり、またたく間に流行歌として広く国民の間に親しまれるようになった。
おもちゃ
フリクション玩具
車の動くおもちゃで、後輪を回しすとばねの力で走り出すおもちゃ。
明治年間、東京、御徒町の荒井源六によって原型が考案され、それを応用した機関車や馬車の玩具が作られた。
1911年(明治44年)には、後部の車輪を床に摩擦させてはずみ車を回転させる自動車や船の玩具が製作された。
フリクション玩具の人気が本格的に高まるのは第二次世界大戦後。
ブリキ製の自動車型フリクション玩具が好評を博し、多彩なフリクション玩具が登場した。
日本国外にも輸出され、1954年(昭和29年)には、最も輸出された金属玩具となった。
1950年(昭和25年)に「サイレン消防車」が開発されて以降、サイレンなどの音声装置を併設したものも登場するようになった。
画像は「トイコー フリクション サウンドトレイン 旭山動物園号」の販売ページにアクセスできます。
映像作品
姿三四郎(映画)
書籍
てんやわんや
人間失格
小説家・太宰治による中編小説。
『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つ。
他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出す事の出来ない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。
この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。
1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。
その1ヶ月後の6月13日に山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺した。
連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に自殺した事から、「人間失格」は遺書のような小説と考えられてきた作品。
戦後の売り上げは、新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。
画像は「人間失格 Kindle版」の販売ページにアクセスできます。
ヒット曲
湖畔の宿
リンゴの唄
こんにちわ!僕は、じぇね太郎!みんなと一緒に地域や時間を旅して、調べていくよ!
こんにちわ!僕は、しろりん!みんなと一緒に地域や時間を旅して、調べていくよ!