1940年代生まれ

出来事

戦争中の暮しの記録

戦争中の暮らしの記録

1940年代というのは、日本の元号では、昭和15年から昭和24年に当たる。前半の大部分が太平洋戦争の期間に当たり、1945年(昭和20年)に終戦を迎え、戦後5年という期間である。

じぇね太郎の旅「ジェネレーション/1940年代生まれ」は1940年代の日本の出来事・流行・世相などについてまとめるページである。

しかし、この10年は戦前と戦後という2つの時期が存在し、内容的にも両方をまとめることに大きな困難さがあるため、ここでは、主に戦前の庶民の暮らしについて焦点をあてながらも、作品については戦前・戦後両方のものを掲載した。

画像は「戦争中の暮しの記録―保存版」の販売ページにアクセスできます。

東京オリンピック開催権返上

東京オリンピック

1936年7月31日に国際オリンピック委員会で1940年に開催される第12回夏季オリンピックの開催地を東京に決定が決まった。

史上初めて欧米以外の有色人種国家であり、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、支那事変の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。

画像は、橋本 一夫 さんの著書「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」の販売ページにアクセスできます。

流行語

ぜいたくは敵だ!/ 欲しがりません勝つまでは

日中戦争や第二次世界大戦の戦時下では、国民に向けた 戦意高揚、生活統制、精神動員 などのための「標語」が盛んに作られ、それらは 国策標語 などとも呼ばれた。

それらの中でも、戦争に関するものは、戦時下標語、戦時標語と呼ばれる。
「ぜいたくは敵だ!」も1940年(昭和15)ころから、東京市内のいたるところに立てられた立看板に書かれた戦時標語である。

1字挿入して「ぜいたくは素敵だ!」に、また「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」から1字削除して「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」というイタズラもあった。

他に「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」もある。
以外にも、町の人たちはしたたかさを失っていなかった。

画像は「戦時下標語集 単行本」の販売ページにアクセスできます。

月月火水木金金

月月火水木金金

土日返上で働くという意味を表す慣用表現。
もとは大日本帝国海軍で用いられたのが始まり。

海軍は日露戦争勝利後も、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに休日返上で猛訓練を行っていた。

1908年(明治41年)に当時海軍大尉だった津留雄三(のち海軍大佐)が、「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉が、やがて海軍中に広まったものとされる。

1940年に上記を元にした軍歌が作曲され、当初はまったく売れなかったが、日本放送協会職員の偶発的なミスによるラジオ放送がきっかけとなり、またたく間に流行歌として広く国民の間に親しまれるようになった。

おもちゃ

フリクション玩具

フリクション玩具

車の動くおもちゃで、後輪を回しすとばねの力で走り出すおもちゃ。
明治年間、東京、御徒町の荒井源六によって原型が考案され、それを応用した機関車や馬車の玩具が作られた。

1911年(明治44年)には、後部の車輪を床に摩擦させてはずみ車を回転させる自動車や船の玩具が製作された。

フリクション玩具の人気が本格的に高まるのは第二次世界大戦後。
ブリキ製の自動車型フリクション玩具が好評を博し、多彩なフリクション玩具が登場した。

日本国外にも輸出され、1954年(昭和29年)には、最も輸出された金属玩具となった。

1950年(昭和25年)に「サイレン消防車」が開発されて以降、サイレンなどの音声装置を併設したものも登場するようになった。

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映像作品

姿三四郎(映画)

姿三四郎

言わずと知れた、黒澤明の1943年に撮られた監督デビュー作であり、既にその頭角を現したといえる映画である。

柔道の素晴らしさを知った主人公の姿三四郎が、柔道を通じて人間的に成長していく姿を繊細かつダイナミックに描いた。

登場人物の人間性に焦点を当てたユーモアあふれる表現方法や独自の映像演出も見事で、この監督が只者ではない事を知らしめた。

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  • 書籍

    てんやわんや

    てんやわんや

    毎日新聞に1948年~1949年に連載された獅子文六による日本の小説である。
    戦後の荒廃した東京と、のんびりとした「相生町」の好対照が見事に描かれている、獅子文六の代表作のひとつである。

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    人間失格

    人間失格

    小説家・太宰治による中編小説。
    『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つ。
    他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出す事の出来ない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。

    この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。

    1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。
    その1ヶ月後の6月13日に山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺した。
    連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に自殺した事から、「人間失格」は遺書のような小説と考えられてきた作品。

    戦後の売り上げは、新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っている。

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    ヒット曲

    湖畔の宿

    湖畔の宿

    1940年に高峰三枝子が唄いヒットした歌謡曲。
    詩人佐藤惣之助が作詞、服部良一が作曲を手がけた。

    歌詞は「山のさびしい湖に一人来たのも悲しい心(中略)書いてまた消す湖畔の便り(歌詞の一部を抜粋」などと唄い、曲中で高峰三枝子のモノローグが挿入される。

    曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
    しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあったという。

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    リンゴの唄

    リンゴの唄

    1946年1月に並木路子、霧島昇によって発売され、敗戦後に初めて流行した日本の楽曲。

    敗戦後に初めての日本製映画で用いられた楽曲で、正確には発売前にその映画(映画タイトル:そよかぜ)に挿入歌として使用されており、その後、流行した。

    楽曲の内容については、日中戦争及び太平洋戦争の戦時中に制作されていたが、歌詞の内容が「戦時下において軟弱である」との理由により検閲不可となっていたが敗戦後になって公開された。
    今では、「日本の歌百選」にも選ばれている。

    画像は「SP盤復刻による懐かしのメロディ 並木路子/リンゴの唄」のCD販売ページにアクセスできます。

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