相模原周辺の社会福祉に関する情報と地域情報を紹介

じぇね太郎 じぇね太郎の旅
-きらきらと輝いていたあの頃あの場所へ-

地域ヒストリー

旧石器時代の伊勢原

いせはらには今から約2万8千年前頃に住み始められたと考えら、従来は、大住台の上ノ在家(かみのざいけ)遺跡出土のナイフ形石器により、1万8千年前くらいと言われてきましたが、近年、下糟屋の上ノ台(うえのだい)遺跡で約2万8千年前の地層から石器が出土し、これが今のところ市内最古の遺物となっています。

この時期の地球は、氷河期の中でも特に寒い時期にあたり、現在とくらべて平均気温が6~7度も低かったと言われています。 山に積もった雪は夏でも解けず、海水面は今よりも100メートル以上も下がっていて、日本列島とアジア大陸は陸続きとなっていました。本州地域には寒さに強いナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が生息し、人々はそうした獲物を追って生活していました。そのための道具として、槍先(やりさき)に装着する石器や獲物を解体する石器が作られました。沼目・坂戸遺跡でも細石刃(さいせきじん)というカミソリのような小さな石の刃が発見されています。

1万2千年ほど前までの長い期間続いたこの旧石器時代は、寒冷な気候に度重なる火山の噴火など、生活には厳しい環境でした。そのなかで人々は自らが作った石器を手に獲物を追い、たくましく暮らしていました。

縄文時代の伊勢原

今から、1万2千年ほど前、気候は次第に暖かくなり、海水面が上昇して日本列島は大陸と切り離されつつありました。こうした気候と地形の変化は動物や植物にも大きな影響を及ぼしました。植物はナラ、ブナ、ニレなどのの森が広がり、動物は大型獣が数を減らし、イノシシやシカ、ウサギなどの中小の動物が増加しました。およそ1万年間続くこの長い縄文時代の中で、人々の生活も環境の変化に順応して大きく変わっていきます。そのひとつが土器の発明です。土器の発明により、食材を煮炊きして食べることが容易となりました。
また、同じ遺跡からは弓矢の先につけた石の矢じりがたくさん出土していますが、この弓矢の発明も動きの速い中小の動物を捕るための工夫です。

約8千年前頃から人々は竪穴住居(たてあなしきじゅうきょ)を作って定住する生活を始めたようです。4、5千年前頃になると、比々多(ひびた)地区、伊勢原地区、岡崎地区にたくさんの住居が造られました。3千年前頃には、東大竹の八幡台や日向の下北原に大集落が作られています。人々は山や林から木の実や山菜を採り、狩りで動物を捕まえ、海では魚や貝を採りました。市内の遺跡からは、鹿の角で作った釣り針やサメの歯も見つかっています。本格的な集落が営まれるようになっていったのは、環境に恵まれて安定した食料が確保されるようになったからと考えられます。

弥生時代の伊勢原

約2500年前、中国大陸や朝鮮半島から海を越えて稲作が伝わり、じわじわと全国に広がりました。
稲作と同時に、鉄や青銅(せいどう)といった金属も伝えられ、金属器は石器よりもはるかに作業能率が良く、土を耕したり、木を切り倒したり、あるいは武器として使うことで、人々の生活を急激に発展させました。

市内では弥生時代前期の遺跡は見つかっておらず、その後、中期後半になると、村の周りを深い溝で囲った環壕集落(かんごうしゅうらく)が見つかっています。環濠は戦いから村を守る防御施設といわれ、本格的な水田耕作の浸透により、村の間に争いごとが生じていたことを示しています。村どうしにも、そして村の内部にも、持つものと持たざるものの格差が生まれ、人々の間には階級的な差異ができ始めました。特に西日本では矢じりが刺さったり、刃物の傷がついたりした人骨が発見されており、集団間の激しい戦闘があったことを物語っています。

そして、後期になると市内での集落分布は、東寄りの石田周辺と西寄りの三ノ宮や善波(ぜんば)周辺に二分されるようになります。

古墳時代の伊勢原

古墳にはさまざまな形がありますが、市内では方墳(ほうふん)、前方後円墳、円墳(えんぷん)が見つかっています。
愛甲石田駅の南側に位置する石田車塚(いしだくるまづか)古墳があり、当初は円墳と思われていましたが、調査の結果全長70~80メートルの前方後円墳であることが分かり、古墳時代の前期から中期にかけてこの地域一帯を治めていた有力豪族の墓と思われます。
大刀や馬具、装飾品が多く出土していて、この当時いせはらは相模を治める王者にとって最も神聖かつ重要な地域であったことが分かります。

奈良時代の伊勢原

中央集権国家の確立を目指して諸国には国府(こくふ)が定められ、中央と地方を繋ぐための道路網が整備されました。各地に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建設され、仏教による国づくりはますます強化されていきました。
相模国の国分寺は海老名市にその跡が残っています。諸説あった相模国府(さがみこくふ)の推定地も、近年の発掘調査の結果により平塚市四ノ宮(しのみや)周辺との結論が下されました。

平安時代の伊勢原

奈良時代と同様に竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と掘立柱(ほったてばしら)の建物の跡が並んで発見されます。発見された遺物の中には、東海地方や関東各地で作られた土師器(はじき)や 須恵器(すえき)もあり、各地との交易はあいかわらず活発だったようです。また、うわぐすりをかけて焼いた愛知県や岐阜県産の陶器、役人の身分を表すベルトの飾り金具などは、中央から派遣された身分の高い人の存在をうかがわせます。

鎌倉時代の伊勢原

いせはらの地にもすでに武士が誕生していました。
崎四郎義実(おかざきしろうよしざね)は三浦半島に本拠を置く三浦氏の一門で、義実は源頼朝より30歳以上も年上でしたが、石橋山の戦いには息子の真田与一(さなだよいち)とともに参戦し、その後も頼朝につき従って鎌倉幕府成立の功臣(こうしん)となりました。
同じ三浦氏の一族で、当時石田を本拠にしていたのが石田次郎為久(いしだじろうためひさ)です。為久は源範頼(みなもとののりより)、義経(よしつね)らの木曽義仲(きそよしなか)追討軍に加わり、北陸へ落ち延びようとした義仲を討ち取った当事者です。
また、鎌倉幕府の創始者となった源頼朝も、いせはらには深い関わりをもっていました。

室町時代の伊勢原

享徳4年(1455)
糟屋を出て相模国島河原(平塚市)へ向かった上杉持朝らと成氏側が激突し、上杉方が敗れ伊豆へ逃れました。
長禄元年(1457)
太田道真・道灌父子は、成氏に対するため江戸・河越両城を取り立てます。以後扇谷上杉氏の拠点は河越に移ります。
文明8年(1476)
山内上杉氏の家宰職の継承をめぐり長尾景春が反乱を起こします。この乱を鎮めるため太田道灌は相模から上野(こうずけ)まで走り回ります。相模では景春与党の小沢(愛川町)、溝呂木(厚木市)、小磯(大磯町)などの要害を攻め落としています。
文明12年(1480)
秩父の日野城を道灌が攻略して漸く景春の乱は終結します。
文明14年(1482)
室町幕府と古河公方足利成氏と和睦が成立します。これ以降山内・扇谷上杉氏の関係が微妙になってきたようです。
文明18年(1486)
太田道灌は扇谷上杉定正により相模糟屋に招かれ殺されてしまいました。道灌はいずれ山内上杉氏と戦端が開かれることを見越して河越・江戸城を修築したりしていました。
長享2年(1488)
山内上杉顕定は相模国糟屋に千余りの軍勢を率いて押し寄せ、七沢城(厚木市)を落としました。急を聞いて扇谷上杉定正が河越城から二百余騎で駆けつけ、実蒔原(伊勢原市・厚木市)で激突し、かろうじて定正が勝利します。

江戸時代の伊勢原

「伊勢原」の名はこの江戸時代の元和(げんな)5年(1619)(元和6年ともいわれる)に、伊勢山田の曾右衛門(そうえもん)と鎌倉の湯浅清左衛門(ゆあさせいざえもん)が千手ケ原(せんじゅがはら)を拓き、伊勢神宮を勧請(かんじょう)して鎮守としたことに始まると伝えられています。

家康は江戸幕府を開くと、大山寺の改革に乗り出しました。当時の大山寺は戦国時代の名残から僧兵や山伏たちの巣窟(そうくつ)となっていました。家康は武力を一掃して人事を刷新(さっしん)し、寺領100石を寄進しています。3代将軍家光もまた、大山寺の再興に莫大な資金を投じています。将軍の代参や春日局(かすがのつぼね)などがたびたび大山寺を訪れました。
江戸中期には庶民の間でも大山参りが大流行し、伊勢原は参拝者を受け入れる門前町として発展し、宿屋や商店などが軒を連ねるようになっていきました。

近代の伊勢原

大正12年(1923)に起こった関東大震災は伊勢原でも多くの死傷者を出しました。しかしその後の復興はめざましく、昭和2年(1927)には小田急電鉄が開通しましたが社会は次第に軍事色を濃厚にしていき、やがて太平洋戦争が始まります。大山は京浜地方の学童疎開地となり、社寺の梵鐘(ぼんしょう)が軍備のために強制供出されました。伊勢原からも多くの人々が出兵し、この戦争で亡くなった人々は伊勢原地域だけで800名にのぼるといいます。

そんな中、終戦後の伊勢原では、昭和29年(1954)に岡崎村を除く前記6町村が合併し、新しい伊勢原町が発足し、中学校の建設、農業振興、道路整備などがおこなわれました。

出典